2017年03月22日
3/26沖縄福島まつりについて
いっこ前のブログについてなぜやるかをいくつか紹介しましょうね。
「瀧落」
沖縄と福島をつなぐ一曲。我々エイサーの演目のうち「渡りざう~瀧落」(“わたりぞう”と“たつぃをぅとぅし”)
瀧落/瀧落菅撹(たちうつし/たつぃぅをぅとぅしすぃががち)は17世紀中旬から下旬、福島出身とされる八橋検校が作曲した「一段」、沖縄で瀧落菅撹となり古典音楽で定着した。お正月によく流れる「六段」も八橋作曲で瀧落はもともと一段。ちなみに京都銘菓の生八つ橋の形が琴の形をしているのは琴の名手・八橋検校から来ているとう。検校とは盲目の人の階級名みたいなもの。
歌舞団ではこの曲は20年前にも別の団体の踊り方(型)を借りていたが、今回お披露目するのは全くの別物。友人のムルンジャトゥチョンダラー氏が振付した。
「袋中上人」
浄土宗の僧侶、踊念仏の第一人者。磐城の国、今のいわき市のええとこの出身で天才で勉強家。幼少期からお寺に入る。めちゃめちゃ勉強しいなので日本中勉強して回り「中国で勉強したい」と思うが外交関係にないため何度か断念。
その間日本中に踊る宗教“浄土宗”を拡め、のちの盆踊りやじゃんがら念仏踊りを定着させていった。
50すぎてから「沖縄(当時の琉球国という王国)からやったら行けんちゃうん」と考え1603年に渡沖(渡琉か)。尚寧王とお友達になり信頼を築き上げたが3年間滞在した。そこでまた行く道中でも拡めた踊り念仏を拡めようとしたら、沖縄にそれ以前からある仮面を用いた踊りや先祖崇拝、年功序列の考えなどがマッチして後のエイサーになる。
結局中国に渡れないことがわかると内地の京都へ帰る。元々関西は京都・田辺・枚方らへんに縁を持っていたので三条京阪駅前に“だんのうほうりん寺”(漢字は調べてください)を建立。(もちろん駅は後から出来ました)
1609年になると多分徳川家の時代から6年のころ、薩摩藩の島津家が琉球を制圧(時間がないのではしょります)尚寧王が江戸にしょっぴかれていく途中ほうりん寺に寄りいろんな物を置いて行き、その中に寧王直筆の袋中肖像画もあった。(確か正面からの図だったと思う)
上の図は福島に伝わる国宝を無理にお願いして撮らせてもらった写真を拡大プリントしたものです。
続く
「瀧落」
沖縄と福島をつなぐ一曲。我々エイサーの演目のうち「渡りざう~瀧落」(“わたりぞう”と“たつぃをぅとぅし”)
瀧落/瀧落菅撹(たちうつし/たつぃぅをぅとぅしすぃががち)は17世紀中旬から下旬、福島出身とされる八橋検校が作曲した「一段」、沖縄で瀧落菅撹となり古典音楽で定着した。お正月によく流れる「六段」も八橋作曲で瀧落はもともと一段。ちなみに京都銘菓の生八つ橋の形が琴の形をしているのは琴の名手・八橋検校から来ているとう。検校とは盲目の人の階級名みたいなもの。
歌舞団ではこの曲は20年前にも別の団体の踊り方(型)を借りていたが、今回お披露目するのは全くの別物。友人のムルンジャトゥチョンダラー氏が振付した。
「袋中上人」
浄土宗の僧侶、踊念仏の第一人者。磐城の国、今のいわき市のええとこの出身で天才で勉強家。幼少期からお寺に入る。めちゃめちゃ勉強しいなので日本中勉強して回り「中国で勉強したい」と思うが外交関係にないため何度か断念。
その間日本中に踊る宗教“浄土宗”を拡め、のちの盆踊りやじゃんがら念仏踊りを定着させていった。
50すぎてから「沖縄(当時の琉球国という王国)からやったら行けんちゃうん」と考え1603年に渡沖(渡琉か)。尚寧王とお友達になり信頼を築き上げたが3年間滞在した。そこでまた行く道中でも拡めた踊り念仏を拡めようとしたら、沖縄にそれ以前からある仮面を用いた踊りや先祖崇拝、年功序列の考えなどがマッチして後のエイサーになる。
結局中国に渡れないことがわかると内地の京都へ帰る。元々関西は京都・田辺・枚方らへんに縁を持っていたので三条京阪駅前に“だんのうほうりん寺”(漢字は調べてください)を建立。(もちろん駅は後から出来ました)
1609年になると多分徳川家の時代から6年のころ、薩摩藩の島津家が琉球を制圧(時間がないのではしょります)尚寧王が江戸にしょっぴかれていく途中ほうりん寺に寄りいろんな物を置いて行き、その中に寧王直筆の袋中肖像画もあった。(確か正面からの図だったと思う)
上の図は福島に伝わる国宝を無理にお願いして撮らせてもらった写真を拡大プリントしたものです。
続く